10歳の夏に“弾く人間を魅了するギターを作ること”が生涯の目標だと目覚める。
“初めてのギターは、父親がボート製作家だった友人のアラン・フィンチの手を借りて作ったんだ。弦には釣り糸、フレットには釘、ボディーはただの木箱という代物だった!”
18歳になってもギター製作への情熱は絶えること無く、更なる追求を試みる。
“今度はエレキギターに挑戦したんだ。だいぶギターの形になったけど、まだまだだった。でも自分自身をエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリクスの求める製作家だと考えてうぬぼれていたんだ。(痛々しい青春時代の思い出…。)”
“たくさんの助けが必要だったけど、ついにプロとしてギターの製作を始めた年だね。木材と、いくつかのツール、そしてイギリスのルシアーJohn Bailleyの著作をそろえて進み始めたんだ。”
その後、2年間は、挑戦と失敗を繰り返し、試行錯誤を繰り返しながら、独力でギター製作と工具の使い方を習得。ボディシェイプ、ブレーシングパターン、サイド材の特性、製造オプション、塗装テクニック、斬新なデザインなど、様々なアイデアを出し、とてもやりがいのある時期を過ごした。
“全部一番難しいやり方で学んだよ。明白な間違えですら、避けて通る方法を教えてくれる人は誰もいなかったし。新しい形とか、ブレーシングとか、とにかく色々試して、独学という「タフな学校」から少しづつ学んでいったんだ。”
この時期、ジョージは、Gibson J-200やES-335、グレッチなど、自分ではとても手の届かないギターに影響を受けた。彼は自分の好みをよく分かっていたので、初期のLowdenギターには、その要素を含めようと努めていた。
“もちろん、頻繁に3次元の“現物”が頭の中で形になって出てくるわけでは無いので、最初の4年間はとにかくデザインのやりなおしだった。”
この実験の年月を通じて、ジョージはアコースティックギター製作における音の力学を、強く意識し始めた。
“ボディー内の空気の動き方や、ブリッジと弦から伝わるエネルギーの音波、そのエネルギーをトップ面積の限界まで伝える方法とか、ブリッジ付近や、ボディーサイドから伝わる余分な剛性を考慮しながら、限りなくトップの振動を均一にしつける方法などを考え始めたんだ。”
“ネックのリセットが不要で、かつ、サスティンを得るために、ボディー内の「抗力」をいかに減らし、トップ材の振動エネルギー を「集約」させ、従来のスティールストリングギターというキャパシティーを超えた強度を保つ事を、どうやったら実現させる事が出来るかよく考えたよ。”
ジョージは構造の安定感を追求するため、一連の実験をはじめた。まず、指板下部のネックブロックを延長し、最終的に現在“Aフレームブレーシング”として知られる物をデザインした。これは、ブレーシングを乗り越えて指板の下部まで辿り着き、ダブテイル・ネックジョイント内のネック側にまで根元がくっつく支柱が、サウンドホールの横から組みまれている物である。
また、シンプルさの中にも品格がある、外見上のデザインも追求した。
これら全ての研究(木材の特性や、物理法則)は、ドルフィンブレーシング(トップとサイドが最適な重量と堅さにヴォイシングしてある)などの革新的なブレーシングシステムや、ブリッジデザイン、ボディー内部のフィニッシュ、組み立て方法、異なった材のブレンド方法などに至るまで、LOWDENを導いて行った。
Aフレームとドルフィン・ヴォイシングプロファイルで作られた最初のギターは1976年に作られ、LOWDENギターの歯切れ良くユニークなサウンドは、広く知れ渡る事となった。
“今はO-25と呼んでいるモデルが完成し、他にも同じ形、ブレーシングと簡素な仕様の3モデルが出来あがったんだ。このブレーシングで出る音や品質、全体的なデザインには満足がいくものだった。一番良かったのは、全モデルの音に満足出来た事だね。”
“この頃の事だったよ。様々な問題(例えば世界でも難しい地域を拠点としながら商業的に成立させる事とか)を自分なりのやり方で対処している時に有益な助けを得ることが出来たのは。Stephen Delft や、Chris Eccleshall(両者ともロンドンを拠点とする素晴らしいルシアー)は色々なツールや木材の仕入先や、製作技術に関する事まで助けてくれたんだ。彼らは、私の<自分でやりながら学ぶ>方法に辛抱強く付き合ってくれた。今日でも、野心的な楽器製作家から助けを求められる時、当時の事を思い出すよ。”
ジョージの友人であるAlastair Burkeがシダートップ、サウスアメリカンローズウッドの“O-38”を受け取り、パリのギターショップ、Folk Quincampoix に見せに行った。ジョージに頼まれた訳ではなかったが、驚くことにすぐに6本の注文が入り、その後も毎月4本の注文が入るようになった。販売が軌道に乗り出し、ジョージは次の数年をかけてビジネスの拡大を図った。しかし、商業的な経験も浅く、当時の金利などが極度に高かった為、現実は厳しい事が分かった。
最初のアイリッシュスタジオ/ワークショップはBangorの6a High Streetに作り、Colin 'Dusty' Miller, Frank Kernaghan, Sam Irwin, Michael Hullの4名を新しいギター職人として雇った。この期間は約100本のギターを作った。(この時期のギターは、小さくて青い長方形のラベルで特定可能)
ジュネーブにある,Servette MusicのIves Imer とRene Hagmannは1978年にLowdenギターを知ってから、ジョージに対して非常に協力的だった。1980年にYves Imerは小さな専門会社を介して、Lowdenギターをライセンス契約で作る事が出来ないかと働きかけてきた。
“そうして私のギターが、名古屋の近くで小さくて献身的な楽器製作家に作られる5年間が始まったんだ。私はS.Yairiの工房に定期的に立ち寄り、デザインを与え、品質をチェックし、日本人の製作技術や仕事に対する真剣なアプローチを学んだよ。生産や工具の事をたくさん学んだ。彼らもまたオリジナルデザインのギターを、高い水準で作る事が出来て喜んでいた。”
“特に学んだのは、早く仕事をする事でのみ可能な、新しいタイプの作業方法だった。それまでは、高い水準のギターを作るには、時間を掛けるべきだと考えていたんだ。でも実際に見て実行したのは、経験した事が無いレベルの高い集中力によって、同じかそれ以上の結果をとても早く出す事だったんだ。その時に、私は名古屋の小さなお店に連れて行かれ、ラミネート加工された日本のハンドツールや、私の想像を完全に絶する、素晴らしい工具を買うことが出来たんだ。”
ローデンギターカンパニー
アイルランドへの回帰
ミッキ-・ウチダ(ピエール・ベンスーザンのファンで、日本から来たギターメーカー)がローデン一家と過ごす為にアイルランドに来た際、一緒に仕事が出来ないか?と打診された。ミッキーはクラッシックギター製作の訓練は受けていたが、アコースティックギターについて学びたがっていた。ミッキーが妻のイズミと共にアイルランドへ到着後、ジョージはルシアーとして、彼の類まれな才能に気付き、工場長としての仕事をオファーした。
“その時以来、私達は一緒になって働いたんだ。ミッキーは、工場の品質管理の徹底や、トレーニングと足りない所を補足するのに集中し、私は生産性やジグデザインなど全体のマネジメントを統括していたんだ。イズミは実際にファイナルアッセンブリーとセットアップを担当していた。この工場設立の初期段階で、唯一のデメリットは、たまにどこかの部門で手助けが必要なとき以外は、私自身がギターを作る時間が無くなってしまった事なんだ。”
この期間のLowden Guitarは楕円形の少し小さいラベルが使われていた。最初の3年間は、各年500-600本、その後毎年1000本程を作った。
“David Magagna(Martin社元副社長、当時のLowden Guitar米国ディストリビューター)がこんなことを言っていたよ。「60年代だったら、NYの大型店に行って、ギターを見せれば(Martinの事ではありませんよ!)店のオーナーは、「「こんなひどいギター今まで見た事ないな...でも50本注文するか!」」と言ったさ。でも80年代は店に本当に最高のギターを持ち込んでも、店のオーナーは「「これほど素晴らしいギターは長い事見ていないな...でも、今壁にかかっているアコースティックギターを全部処分しないと、買えないんだ!」」って言うんだよ」。”
最終的にこの年の11月に未熟なアイルランドの会社は資金を使い果たした。誰も投資する意欲がなく、非常に難しい時期であった。(ジョージは断ったが、あるベンチャーキャピタルの会社が小額の資金で資産の66%を保有したがった事を除く)。ジョージは責任を果たす事が出来ない赤字状態でのビジネスに不愉快を感じ、閉鎖する事を決心した。この知らせを受けて、会社の銀行は財産管理('第11条')の同意をジョージまで依頼したのは、将来の協力で会社を売却できると信じていたからだった。
Andy Kidd(レコーディングエンジニア、レコードプデューサーのバックグランドを持つ)によって率いられた、現地の人々が財産管理より会社を買う為に、合弁会社を作り上げた。ジョージはこの新しい合弁会社と契約を結んだ。これより、ジョージは会社から独立してもLowdenデザインと商標を所有出来、品質管理や新しいデザインを作る事が出来るようになった。当時のモデルレンジはまだまだ少なかったが、ディーラーネットワークは、ヨーロッパと米国の一部で確立されていた。